お久しぶりです。findmanです。
久しぶりの休みをひたすらYoutubeを見ることで消化してしまってるんだけど、それでも勉強をほっぽだして、変わらず記事は投稿していこうと思う。
てことで今回はリアルでゲームに対して知識のなかった友が面白いと言ってくれた内容について解説していこうと思う。
それが、「DSとPSP」の因縁の対決に関した歴史だ。早速始めていこう。
事前知識「これまでのSCEと任天堂の勝敗」
DSとPSPの発売以前の任天堂とSCE(PSシリーズを出していたSonyの子会社)との関係を見ていこう。
1980~1990年前半まで
このころの日本の家庭用ゲーム機の市場は、まさに任天堂の一人勝ちだった。
いろいろな企業が個性豊かなゲーム機を出していた中、任天堂は戦略、価格、ソフト、性能など様々な面において他社に勝っていた。もちろんセガやNECは、メガドライブやPCエンジンなど個性的な特色を持った素晴らしいゲーム機を出していたのだが、どれも任天堂の地位を揺るがすのもではなかった。
1994年、SCEの時代が始まる
1994年12月3日、SCEから「プレイステーション」が発売された。もともとPSは任天堂のゲーム機である「スーパーファミコン」の周辺機器として共同開発されていたのだが、紆余曲折あり断念。その時のノウハウをもとに、任天堂に対抗できるゲーム機として開発されたのが、このゲーム機だ。
当時の最先端技術だった「3Dポリゴン」を用いた新たなゲーム体験をプレイヤーに与えたプレイステーションは、爆発的なヒットを記録し、また巧みな営業面から、セガサターンを中心とした同世代他機種の猛攻を振りきった。
そして、ゲームが人々に遊ばれるようになって以来任天堂が守り続けた「覇権」を初めてSCEという他社が奪い取ったのだった。
(ここの巧みなSCEの戦略はいつか記事にしたいよね。)
~2000年ごろ
2000年になってもSCEはPS2によって変わらず据え置きゲームの覇権を手にしていた。ニンテンドーはPSに敗北を期した「ニンテンドー64」の失敗点を改善した「ゲームキューブ」を出したが、PS2の巧みな戦略によって敗北を期した。
SCEが次に狙うは、携帯ゲーム機の覇権
ここまでで、SCEは任天堂から据え置きハードの覇権を奪い取ったわけだが、いまだ携帯ゲーム機の方では任天堂はGBAによって覇権を握っていた。
SCEはこの勢いのまま、任天堂から携帯ゲーム機の覇権の奪取を目指す。
当時のゲーム市場の問題
さて、ここで少し知っておいてほしいのが、2000年ごろのゲーム業界全体の問題だ。それは、ゲーム機の性能の向上により様々な魅せ方ができるようになった反面、ゲームの複雑化に伴う「ライト層、家族層のゲーム離れ」が深刻になっていた。
当時のゲーム業界には少数のコアゲーマーだけが残っており、そのコアゲーマーがゲーム人口の大多数なわけなので、そこに合わせたより複雑なゲームを作ろうとするという、人口減少に拍車をかける恐ろしい循環ができていたんだ。
PSP、DSの両者の戦略
ここからはPSP、DSのそれぞれの戦略を見ていこうと思う。
PSPの戦略
さて、任天堂の携帯機覇権を奪おうと考えられたPSPの策略は以下。
- 高性能なハードを作る
- ゲーム以外の様々な事をできるように
- UMDの導入
高性能なハードを作る
それまでの携帯機への世間の考えはいわゆる「デザート」のようなものだった。壮大で美しいグラフィックのAAAタイトルを据え置き機でやり、携帯機では外出中にサクッとできるゲームをやるみたいな。
だから、当時携帯機の中では高い性能を誇っていた任天堂の「ゲームボーイアドバンス」はSFCほどの性能だった。
PSPではまず、高性能なゲームを携帯機でも実現させることで、任天堂のシェアを奪おうとしたんだ。それによって実現したのは
【初代PS<PSP≦PS2】という携帯機としては異次元な性能だった。一部のゲームでは色々ゲーム内容を削ってはいるのだが、PS2のげーむがPSPに移植されることもあり、このようなことからもPSPの性能の高さがよく分かる。
ゲーム以外の様々な事をできるように
いわゆる「マルチメディア機」としての活躍も目指されて作られたのがPSP。当時はウォークマンや携帯電話などの普及など、屋外でメディアを体験できるガジェットが増えてきていた。そんな中でPSPは「21世紀のウォークマン」と、紹介されており、本気でマルチメディア機として展開させようとしていることがわかる。
性能面から見れば、今で言うSDカードに当たるメモリースティックの導入や、当時では珍しい大画面アンド高画質を実現しており、音楽、動画視聴用のマルチメディア機としてはベストだろう。また、当時では先進的だったWifi接続によるブラウザ閲覧もできるようになっており、コレにお世話になった人は多いハズ()。
そんな先進的なゲーム機の発表はIphoneの発表ほど世界を新歓させたのではないだろうか。俺はしらんけど。
更に、PS2がDVD再生機という目的でゲームをしない多くの人に売れていたことも、マルチメディア機に積極的にさせようとしていた要因としてはあるのではないかと思う。
UMDの導入
PSPにはUMDというディスクがメディアとして提供されたんだけど、理由は以下の通り。
- 大容量の実現
- プロテクトの強化
- UMDの専売、世界的普及を目論む
まず、PSPは高性能なので、ゲームにもたくさんのデータが必要になる。そこで、大量のデータ容量をするためにディスクのUMDが導入された。その容量は約1.8GBと、当時の任天堂の据え置き機であったGCの8cmディスクの容量である1.5GBを上回っている。
そして、今までのROMカセットからUMDに変えることで、再生することがPSPでしかできないので、物理的なプロテクトの強化を実現している。しかし、現在ではかんたんに行える改造によってPSPのソフト吸い出しなどは簡単に行えてしまうように。
そして、UMDを世界的なメディアにしたいという目論見もあった。UMDにはDVDのように映画が収録されたものもあり、また、UMDを搭載した機器をPSP以外でも出そうとしていたことから、その本気度が伺える。しかし、UMDの普及を行えるほどのPSPは普及せず、SCE本体の体力も時が経つごとにドンドン削り取られてしまったことから、結局UMDの普及は失敗してしまい、PSPみが唯一のUMD対応機種となってしまった。
ちなみに、PSP後期時代にはUMDを搭載しないPSPgoという製品も発売されており、この頃にはもうUMDに見切りをつけていたのではないだろうか。
なお、UMDを搭載したPSPだが、ディスクを小さな携帯機で回すことになってしまったので、「騒音」「バッテリー消費の速さ」「ロードの遅さ」という問題も抱えてしまった。
DSの戦略
DSはPSPとは正反対の戦略を行っていた。それは「ゲーム人口の拡大」というもので、任天堂がDS以降取り組んでいく課題となっている。
GCを発売した後、任天堂ではゲーム人口自体の減少を抑え、新たな層、ゲームをやめてしまった層の獲得を目指す動きが始まった。それを反映したDSの戦略は以下。
- 直感操作。
- ゲームをしない世代へ向けたゲーム。
- 低価格、低性能で革新的。
直感操作
DSは2画面にタッチ操作という、誰も考えつかないような形状のゲーム機だ。特に下画面に備わっているタッチパネルは、どのようにしてゲームとして機能させるのか注目されていた。そんな中、任天堂はタッチパネルによる直感的な操作を実現し、ライト層の獲得に努めた。例えば「脳トレ」ではタッチパネルによってそのまま文字がかけることで、タッチパネルの意義を大いに教えてくれる作品だ。
また、本体のボタンはSFCのコントローラーほどのボタン数になっており、当時流行の3Dスティックなどは取り入れていないところからも、簡単な操作を目指そうとしていることがわかる。
ゲームをしない世代へ向けたゲーム
先程述べた「脳トレ」のようにライト層に向けたゲームを多く出しているのもDSのの特徴だ。犬を育てる「Nintendogs」だったり、2Dの簡単な操作に戻った「New スーパーマリオブラザーズ」だったり、タッチとハジキという簡単操作の音ゲーである「リズム天国」だったり。
低価格、低性能で革新的
2画面、タッチパネルなど、最新鋭のシステムが搭載されているように思われるDSだが、実はそれは間違いだ。タッチパネルが搭載された理由の一つに量産化や需要の落ち着きなどの低価格かも挙げられる。
任天堂には横田軍平という人物の「枯れた技術の水平思考」という考え方がある。その考えを簡単に書くと、「普及しきって使われなくなってきた技術を、アイデアによって有効的に使用する。」というもの。
例えばゲームボーイでは枯れた技術である白黒液晶を使用することで、低価格化、省電力化に成功している。DSでもその考えが受け継がれているわけだ。
また、シンプルでライト層向けのゲーム機としているため、性能をがっしり積んでいるわけでもない。そのためそこまで性能は高くはないのだが、多くのDSユーザーは性能を求めているわけではないし、低価格化に望めるわけだから、ここの取捨選択はうまくいっていると言っていいだろう。
発売前の珍事「空白の17分」
GBASP発売からしばらく、SCEは新しい携帯ゲーム機を作るのには時間がかかるだろうと鉄を踏み、PSPの開発を密かに進めた。
一方任天堂も「異質な商品を開発している」とSCEを牽制した。
そして、SCEは2004年の9月21日に行われたPSの発表会にて、PSPを発表しようとしていた。そんな中、発表会の一時間前に任天堂が公式サイトを更新。
その内容は、なんと「DSを12月2日に15000ぐらいで発売する」というものだった。完全に出鼻をくじかれたPSP。当時は年明け発売を目標としており、しっかりとした形もまだできていなかった。更に値段設定も約30000円に設定しており、そのままの情報をここで公開してしまえば、早速任天堂に大きな差をつけられてしまうことになる。そこでPSPを発表するか否かを検討し、それによって会の始まりが17分遅れてしまった。
SCEはこの遅れを「司会者が遅れたため」といっているが、特別な発表の際には早くに司会者を越させているはずだ。
かつて情報戦によってやられた任天堂であったが、ここできれいな反撃を果たしたのであった。
ちなみに任天堂の12月2日という発売日の設定は、これまでにPSシリーズは1,2,3という数字を大切にして発売日を決めており、PSPの発売日が12月3日と予測されていたからだ。
その後PSPは10月27日にPSPの発売日と値段を発表し、それぞれ12月12日と19800円となった。初期PSPの不具合や設計不備の多さの理由には発売日に間に合わせるための急ピッチな開発が原因ではと言われており、また19800円という下がりに下がった値段設定は後にSCEのお家芸となる「逆ザヤ」の始まりとなるのだった。
終わりに
ということで今回は、久々にゲーム史について語る記事を出すことができた。正直書いててめちゃくちゃ楽しかったんだけど、やることあるので今回はここまで、次回ではPSPとDSの発売後の動きを振り返っていければと思う。
じゃ。
参考、引用、画像借用元
<a href='https://jp.freepik.com/vectors/background'>Starline - jp.freepik.com によって作成された background ベクトル</a>
"Designed by starline / Freepik"(サムネの背景)
https://kopenguin.com/post-5845/
https://www.inside-games.jp/article/2021/05/10/132237.html
https://fpsjp.net/archives/248366
https://japanese.engadget.com/jp-2017-12-11-2004-psp.html
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2004/0405/kaigai081.htm
https://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A9%BA%E7%99%BD%E3%81%AE17%E5%88%86